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formally known?? as ANGLER ON THE HILL

1. ズボンズ / B★B★B(11月)

B★B★B

B★B★B

 とりあえず来年以降もこのサイトがあり、年末BEST10企画があることを前提にして言うと、今後ズボンズのアルバムがリリースされてもBEST10には入れない。つまりそれはあれだ、殿堂入りというヤツだ。もうリリースされれば1位にしなければいけない、これは僕の使命なんで仕方ない、しかしそんな使命とかもう面倒なんだな。文章が破壊的に面白ければいいのだが、そうではない場合、意外性が出てこなければ読者は次第に離れていく。そもそも読者なんているのかという疑問はここでは受け付けん。というより自分自身がもうズボンズを1位にすることに飽きてしまったのだ。ランキングってのはそれを信頼する人がいるならともかく、とりあえずは自分がこれは1位〜いや、これかなぁとか迷いながら自分の中で整理していくことに楽しみがあるのでランキングで毎回1位になってしまうアーティストがいるとランキング作成のときの楽しみが減ってしまうので正直邪魔なのだ。ということでズボンズ殿堂入り。これからも殿堂入りしていくアーティストが出るかもしれんがよろしくね。だって皆新しい音聴きたいでしょ?まぁそんなわけで最後のランキング入りの今作だが、使命感などさし引いても、文句なしの快作が届いた。前作から2年ぶりのアルバムだが、この間にズボンズに何が起こったか。一番大きなことといえばリーダーであるドン・マツオさんのソロ作『オレハシナイヨ。』がリリースされたこと。それにともなってマツオさんが日本全国津々浦々、単身ギター背負って地元のバンドをバックにツアーしていくといった冒険的プロジェクトだろう。このマツオさんのソロ・アルバムが実に素晴らしい作品で正直リリース当初はこれが今年の一位だろうな、と思っていたのだが、本体も素晴らしいアルバムをリリースしてしまって同じアーティストを入れるのもつまんないだろう、ということで、ここで裏の一位を『オレハシナイヨ。』に捧げていることを表明しておこう。少しその内容に触れると、マツオさんが作った曲のうちズボンズ向きではないなというものがたまって、たまたま去年の夏に暇が出来たのでソロ・アルバム作ってみようと思い立ってLimited Express(has gone?)のJJこと飯田仁一郎氏に電話しプロデュースを依頼した。というだけあってそのフットワークの軽さと色々いる中でJJを選ぶという発想の柔軟さはやはりピカイチだ。僕がドン・マツオという人間に魅了される理由はいくつもあるだろうが、その中でこの発想の柔軟さというのは大きい。しかし発想が柔軟なだけではなく衝動に忠実、感情に正直という純粋に音楽を楽しもうという姿勢が伴っている為、出した音にウソがない。彼が今一番出したい音を彼が出しうる最大限の力をもって出そうとするからこちらもその音に全てを委ねたい気分になるのだ。ドン・マツオという人間の求心力の高さは恐らくそういう部分が大きい。だから、勢いは衰えないし、若い勢いのあるアーティストも集まるといった具合で例えば今京都のオルタナティヴの中核にいるといえるLimited Express(has gone?)や、moools二階堂和美あらかじめ決められた恋人たちへ、その他諸諸と参加アーティストの多彩なことよ。音楽性の相似で集めたり集まったりならこうはいかんだろう、しかも出来上がったものがその様々なアーティストの色を具えつつも、それはどっからどう聴いてもドン・マツオの音なのだ。これは本体であるズボンズの音にも言えることだ。ズボンズは今一番いい状態にある、とドン・マツオさんは言う。しかし、だ。僕はいい状態じゃないズボンズなんて見た事がない。それは前作『New Sun Francisco』リリース前後のインプロ主体のジャムバンド然としていた時期だってそうだ。といっても巷に溢れる凡百のジャムバンドのような音を思い浮かべて貰っては困るのはそのライブでの圧倒的な集中力と熱量が所謂ジャムバンドとは一線を画していたから、当時のズボンズのライブはステージもフロアも緊張感で満ちていて、観客もそしてメンバー同士も一挙手一投足を見逃すまいと目を見開いていたのだ。その緊張感の後に起こる爆発の快感は他で味わうことは絶対にできなかった。そんな今のズボンズからはあまり想像できない音でもズボンズズボンズで僕は常に今が一番いいズボンズだ、と思っていたから。それは今も変わらない。常に最高の状態を更新し続けるバンド、それがズボンズなのだ。そして今作、ソロ・アルバム同様JJ、高橋健太郎を迎える辺り、やはりソロ・アルバムでの音作りはバンドにも持ち込まれたと考えていいだろう。つまり曲を作りこむ、歌に重点をおく、というスタンスは前作とは真逆といってもいい。そして、このアルバムでまず目、というか耳を惹くのがヒップ・ホップをやっているということ、これは別に新たな取り組みというわけではなく今までの作品にもそういうスタイルで作られた曲がある。また、音質のラフさ、これも多くのリスナーが感じることだろう、そして思い浮かべるのは初期のズボンズの録音の粗さである。これは録音のクオリティの低さを指摘しているのではなく、ただ単に粗く録音しているということで、そのラフな録音が初期のズボンズアンダーグラウンドで怪しい雰囲気の演出となっていたということでズボンズに関して言えばプラスになりさえすれ、そのことが原因で駄作と評すまい。より生きた音を伝えるのであればこういう録音は実に効果的である。そのような要素から今作を『LET IT BOMB』になぞらえる向きがあるようだが、僕はそうは思わない。確かに音楽要素の部分部分を抽出すれば『LET IT BOMB』のようなところもあるかもしれない。しかしアルバム全体を見てみるとそうは思えないのだ。あえて挙げるのであればそれは『Dirty Bomb』だと思っている。あのアルバムと今作はどちらも音が全体通してオープンである。これは実際聴いて感じ取ってほしいのだがズボンズが作品通してポジティヴな音を出しているのは『Dirty Bomb』と今作だけだと感じている。それが理由かどうかわからないが、ことズボンズに関しては昔の作品を殆ど聴かず最新作ばかりを聴く。もう頭に完全に入っているからわざわざプレイヤーに突っ込んで再生する必要がないということなんだろうが、それでも『Dirty Bomb』だけは例外で結構高い頻度で聴くのだ。そして今作もその例外になるような予感がある。ポジティヴと書いたがそれはポップに通じるものだと思っている。といっても今作『B★B★B』が『Dirty Bomb』みたいな作品か、といえばそういうことでもない。先にも述べたようにズボンズはいい状態を常に更新し続けている。でも僕はいつの頃のズボンズも全て大好きだ。前作の頃Ghostやカン・テーハンなどにあったドン・マツオの音楽的興味は今マドンナに向いているらしい。しかしそんな興味の変化があってもストーンズは常に聴いているらしい。そして僕はもう何年もズボンズを聴いてきて、これからも聴き続けるのだと思う。

2. THE FLAMING LIPS / at WAR with the Mystic(4月)

 タイトルからもわかるようにこのアルバムで掲げられているテーマは反戦である。そして、ブッシュ政権を代表とするあらゆるパワーに対する抵抗。それがTHE FLAMING LIPS流にされるとこういう風になるのか、底抜けに明るいヤーヤーヤーの歌、手拍子、ヘヴィ・コズミック・ファンク、またお得意のオーケストラサウンドやエレクトロニクス、壮大なロックオペラ、荒々しいドラミングやファズベースのうねり。これは60〜70年代を踏まえた21世紀の戦時下サイケデリアに聴こえる。また名指しであるアーティストを批判したり、声高に叫んでみたりで嗄れ気味のウェインの声。もうとにかく力の限り訴えるしかないのだ。彼が今のようなサウンドにシフトしてから怒鳴ることがあったかしらないが、何でそんなに声嗄らしてんねん、と突っ込みたくなるほどで、サマソニで見た時もウェインの声はすぐ嗄れてしまっていたし、もともとそんなに声量がないのか何か無理して声を上げているような印象さえ抱く。それだけ、訴えるものが大きいのか。近年のTHE FLAMING LIPSの音楽には内省的な悲しみの中に見出す生の光というものを感じていたが、今作ではとにかく理不尽な状況の中での怒りや悲しみに対してありったけの表現をすること、それが光であり、あらゆるパワーに圧倒され疲弊しきった中で有効なのは底抜けの明るさ、ダンス衝動、そしてサイケデリアなのである、という宣言に見て取れる。時に挫けそうになっても手を叩こう、そうして現代のヒッピーは踊り続けるのである。まぁWayneのヘロヘロ声じゃぁ全然踊れないんだけど(それがまたいいんだけど)、踊ろうとすることが、踊らせようとすることが大切なのであるということを声高に叫びたいのかもしれない。自分には何もする力がないとか安易な反戦は偽善であるとかそういう風に頭のいい人に言いくるめられてしまいそうになったり、あるいはそうやって戦争が対岸の火事であると思ってしまったりすることもある。だからって理不尽な人殺しが起きていることにただ単に胸を痛めることすら偽善だとでもいうのか?忘れてはいけないのは現実に殺戮合戦が行われていること。自分がどうにもできない、戦争はなくならないとかいって容認してしまえばそれまでじゃないか?原因が自分の与り知らないもっと深いところにあるからとかなんだかんだとかそうやって諦めてしまうのは簡単だけど、同様に与り知らないはずの自分の国がその戦争に加担していることすら認めてしまうのは違うんじゃないか、と思う・・・んー何の話だ?つまりこれはSFなのか?神話なのか?海の向こうでならされた音にも反応するように海の向こうの現実にも目を向けるべきなのだ、そして、何を思うか、なのである。時折見せる明確な批判、皮肉たっぷりの歌詞、逆説的な音色、それぞれをどう受け止めるか、あるいは受け入れるか突き放すか、すべて自分次第だ。まあ、誰がどう聴いたって関係ないがとにかく僕はそう聴く。サマソニでは本アルバム2曲目「FREE RADICALS」のサビ部最後に“Fanatical!!!”とあるが、その後に挿入される嘆息の変わりにFuck!!!と叫び、それを客席にも求めた。そして僕はそれに応じた。クソみたいな状況でFuck!!!と叫ぶこと、そして喉が潰れるまでヤーヤーヤーと合唱すること、それもやはり重要なことだと思ったのだ。荒々しい狂気の果てに光を見出そうとするのがat WAR with the Mysticなのである、だから、ヤーヤーヤー!と大声で歌い、力いっぱい手を叩いて一緒に歌うことでその光が少しでも見えてくればいい。

3. 遠藤賢司 / にゃあ!(3月)

にゃあ!

にゃあ!

 史上最長寿のロックンローラーにして言音一致の純音楽家の最新作。モノクロームエンケンが真っ赤に「にゃあ!」と叫ぶジャケからしてもう完全降伏状態。それでもここで負けてはエンケンに失礼とばかりにプレイヤーに突っ込んで再生スイッチを押せばいきなり「宇宙を叩け!」の怒号と来たもんだから最後までエンケンと闘い続けることができるだろうか、と不安になるがオレは諦めない。諦めたらそこでゲーム終了だと言ったのは安西先生だったか、オレは諦めたってその先があると思うんだが、でもこの闘いだけは諦めるわけにはいかない。何故ならこの闘いだけは諦めたら本当にそれで終わりだから。エンケンは対峙する全ての者に真っ向から勝負を挑み、嘘偽り無く全てをぶつけてそれで、勝つ!相手はビートルズだったりベートーベンだったり、とにかく素晴らしい音楽家表現者に触れるたびにエンケンは、なるほど、そう来るか、面白い、だがオレはこうやる、これがオレのやり方だ!といわんばかりの自身の魂に忠実に噴出させる。その魂に触れるたびにオレも自分の魂に嘘つかず、忠実に表現していかねばならない、とケツの穴が締まる。締まりすぎて体全部がケツの穴に取り込まれてしまうくらいだ。しかし、そんな言音一致の純音楽家への道は険しい。どうしたって自分のやりたいこととは別の体裁や環境に迎合して折り合いつけて丁度いいくらいの表現に収まろうとしてしまうから。その方が楽だし最初はウケもいいだろう。でも、皆が皆そんなことばっかしているから似たような音楽ばっかり溢れて面白くなくなってしまうのだ。それで日本の音楽がつまらないとか言っちゃって、自分は棚に上げていやがる。そういうヤツはエンケンのライブを見た方がいい。エンケンは日本で音楽をやっている日本人だぜ?エンケン知らないのに日本の音楽全部聴いたような口聞いて、やれナンヤカンヤと欧米化?なんて、とんだお笑い種だ。エンケンはもう何十年も自分の魂に忠実に音楽をやってきた。だから今でもこうやってやりたいようにできているんだ。日本人か否か、ではなくて本気でやっているかどうかだろ。それでもまだ日本人はとか言っているヤツはもう自分が日本人であることを恥じて切腹でもするべきなんだけど、そんな度胸もねえんだろうが、まぁオレもねえんだけど。でもオレは日本人であることを誇りに思っているし日本人で素晴らしい音楽をやっている人達をたくさん知っている。そしてエンケンのような全てにおいて正直な人間でありたいと思っている。美しい国だとか、愛国心だとか、そういうもんは法や教育ではなくてこういった素晴らしい表現や風土や人間に直接接したりして初めて自然と生まれてくるもんなんだ。そんなこともわからないで欧米におべっか使ってばかりの人達が日本という国を仕切って教育にまで口出すようじゃ愛国心なんてなくなっていくばかりだろうよ。今こそエンケン、言ってくれ!そうだ!「ド・素人はスッコンデロォ〜!!!!!」

4. 湯川潮音 / 紫陽花の庭(6月)

紫陽花の庭

紫陽花の庭

 今年の初めにリリースされたセルフタイトルのフルアルバムもとても素晴らしかったが、去年リリースのシングル曲がアルバムの半分弱を占めていて、しかもこの開かれた日常でもガッツリ書かせていただいたので省きました。そのガッツリ書いた中で前々作『逆上がりの国』からの変化を重かった空気が軽くなった、暗い森を抜けて緑の草原に飛び出したような朗らかさを持つようになったと書いている。そこから約半年でさらに軽やかになった彼女の声はもう完成されてしまったようだ。様々な変化に富んだそのフルアルバムでは色々な音を楽しみながらもまだ視点が定まらないような不安定さを微かに残していたが、ここへきて驚くほど落ち着きを見せている。6月に出された『紫陽花の庭』、つまり、初夏を意識した夏盤という明確なコンセプトの元に作り上げたために視点が散らず一つの歌い方に集中できているということもあるだろう。その為余裕があるのか、落ち着いただけではなく声に伸びが増し、一層柔らかく響くようになった。前作で金延幸子のようと評したが、彼女の歌はさらにそこへと近づいている気がする。というよりも金延幸子と並べてもなんら遜色ない。また金延幸子を称する時に名前の挙がる大貫妙子荒井由美といった素晴らしい歌い手の持つ魅力にすら肉薄しているといえる。あるいは彼女が今作を作っているときに聴いていたというMary HopkinやCarpentersとも肩を並べられるほどの歌手に彼女はなってしまったのだ、と多少の贔屓目を抜きにしてもそう思える。大貫妙子の場合はシュガーベイブ結成が20歳、ソロデビューが23歳、荒井由美が『ひこうき雲』をリリースしたのが19歳、湯川潮音は先日23歳の誕生日を迎えたようだが、潮音ちゃんが彼女達のように後年ビッグネームになるかどうかは別として、年齢的にもキャリア的にも現時点でそこまでの成熟を見せてなんら不思議はないだろう、もちろん年齢なんて全然関係ないのだがその二人が50歳を過ぎていまだに素敵に歌い続けていることを考えると、むしろシングルとアルバム一枚ずつ残して消えてしまって戻ってきた時には「?」だった金延幸子よりもその二人になぞらえた方が湯川潮音とリスナーの未来がとても明るいように思えて、そういう意味でこのミニアルバムが僕にもたらした光明はとてもポジティヴなものだった。湯川潮音の芯はもうまったくぶれていないから、今後どういう風に歌い方を変えても素敵に歌い続けていられると信じ、歌い続けて欲しいなぁと切に願うのだ。

5. The Red Krayola / Introducing(4月)

イントロダクション

イントロダクション

 今、酔っている。12月18日深夜3時6分、そして、昨日の夕方19時頃から泡盛をロックで呷って24時過ぎまで。まぁ年末だから、忘年会というやつがあるんだけど、本当は朝まで飲むつもりだったのだが社会人は明日月曜日だしまぁ途中で散会となったわけだけど、そうなるとpreNEETの僕は明日何もないし、どうしたもんかな、と、思い出したのは一度THE HOWLING HEXのレヴューを書いたのだが、そこで酩酊のうちに書いた駄の駄文が好評を博したことだ。今書いているBEST10、2つ分セレクトしたCD20枚のうち、同様の方法で書くとしたら何が一番お誂え向きか、と。ところで、これはちょっとした推測。ヨッパライの相手をすることほど面倒なことはないと思う。それは文章においても同じではないか。でも自分も酔っ払っていたらそうでもない、むしろ面白いような気がする。そこで考えた。酩酊文に好評を下した連中も実は酔っていたのではないか、と。無い話ではない。というかありがちだ。ちなみに今はちょっと頭痛があるのでお茶を飲みつつ書いているがアルコールはバッチリ残っているので安心してください。いや、安心はしてくださんな。特に理由は無いが、オレの文章の前で安心されることは許せん、何となく。BGMはCDではなくてなぜかアイドルのラジオ。書く気あるんかい!で、何だ、そう、読んでいる奴らも酔っ払っている可能性が高い。だからなんだって?つまり、それってとても楽し過ぎるんじゃないだろうか?ともすれば迷惑防止条例かなんかでしょっ引かれる行為も相手も迷惑行為者であれば問題はまったくないのだから。だから核兵器も全ての国が保有すれば世界は平和になる。と。あー極論だということを知れ。貧しい国に無償で作ってあげるんのかよー?あ?違う。何だ。えーつまりパワーバランスってそのバランスはパワー持っているものにとって都合のいいバランスだろうが。やはりモニターの向こうも酔っ払っているからいいとかいう推測は究極すぎる、無い話ではないにしても素面で読んでいる人もいるはずなんだ。暴力は自覚的でなくてはいけない。そうでなければ暴力に理由や正当化が起こるから、それは暴力の中の暴力、最悪なのだ。なんの話だ、もうよくわからん。えーRed Krayola。Mayo Thompson爺が未だに緩々のケツのアナから放屁するように朗々と歌い上げてペナペナとギターを弾いて、そんで俺はそれを聴いている。おれはお酒が大好きでそのうえ酒癖も悪いときて飲み会の後に自分の失態を笑われて、気持ちのいいもんではないのに、でも、たまたま酩酊の裡の行動が褒められたら調子に乗って還暦過ぎるまで放屁止まらないのであった。The Red Krayolaは異端ではなく、異形でもなく、しかしスタンダードにいようとしても収まらず、ただただMayo Thompsonという、生まれてこのかたMayo Thompsonであり続けるということが表現であった。人間の暴力もええかっこしいの虚勢も怒りもその他もろもろの醜い表出がMayoじいさんの歌のまえでは無力である。それはMayoじいさんはMayoじいさんでしかないから。当たり前のようだが、お前はお前でいれているか?オレはオレでいれていない、オレは認められたいし、褒められたいし、他人に強要したいし、そういった中でのウソも平気で吐いていく。お前はどうだ?例えばTortoiseが好きだと言ってみる、確かにかっこいいバンドだ。そいでJohn McEntireが素晴らしいと言ってみる。そしてJohnがプロデュースしたりしていればちょっと評価もあがったりするんだ。Jim O’Rouke。皆大好きだ。Jimのプロデュースに一目置いたりする。どうでもいい筈なのにJimが絡んでいるだけでちょっといいんでないか、ちう気がしてきたりする。でも、それってどうなんだ?絶対に良くない、とは思わんがそんなことでいいのか?本当にいいのか?俺はこのCDのリリースに合わせてのKrayola来日のライブを見たが、ドラムにはJohn McEntire、ギターにはJim O’Roukeが配されていた。シカゴ万々歳な人には涎の止まらないセットだろう。素直に悔しがれバカ野郎。オレも、こりゃイイヤ、得した、という感情が過ぎったのだが実際のところMayoが歌い出せばそういうことは本当にどうでも良かった。何が自分にとって良くて何が自分にとってどうでもいいか、ということを刹那刹那で的確な判断を下せなくなったら人間腐乱への一歩一歩になるんでは?色々な情報に騙されまくって個人の音がどんどん消えていく、勿体無い。それしかないとは思わないが日本のヒットチャートを見ていると、どこかにお手本があってそれに倣って歌っているのではないかと思うほど画一された歌唱法の陳列に辟易してしまうこと頻り。ヒットチャートでなくても例えばシーンなんて馴れ合いの果ての個々の消失促進の病巣ではないか。チャートもシーンも糞喰らえだ。ウンコ食べちゃいなさいだ。そんなんなったらおもんなくなるやんけとかちょっとは思わんのかい!Mayoじいさん、アンタの歌はアンタの歌以外の何もんでもない、ウソもホントもない、正真正銘アンタの歌だんべ。そうやってMayoじいさんの歌を聴くたんびにケツの穴が締まる思いざんす、でも同時にゆるゆるにさせるのがじいさん、アンタの歌の魅力なんだよにー、ホント、大好っき!!!!!!あーナンか恥ずかしいからもう酔っ払って文章書くのやめよ。

6. PARA / X-GAME(11月)

X-GAME

X-GAME

 バンドの歴史やメンバーについて詳しくはここを参照してもらった方が早いが、ナンと山本精一の新バンド、ということではないようだ。だが僕にとっては、というか関西圏以外の人にとってはやはり新バンドのお目見えという感覚がある。最近はROVOとアルゼンチン音響派との絡み、後はたまにCHAOS JOCKY、その他セッションくらいでしか関東圏での山本精一の名前を見なかったから、本格的なバンド編成での山本精一の新しい音に触れるということで新バンドに対するものと同様の期待を持ってもいいでしょ。このバンドが目指すのはフレーズの組み合わせによる音の組み立て→意図せぬ失敗からの次の音形成へ展開ということらしい、ということでいいのでしょうか。つまりプログレッシヴな音作りからハプニング状況音劇場といった具合か、それを楽しむという姿勢がまず好印象。基本的に演者が楽しんでいない演奏が楽しいはずがないし、それがゲーム性を持っているのなら尚更だ。そして、そのフレーズの組み合わせによって出来上がる音が簡素なポリリズム、というのも殆どのパートが同じフレーズを弾いている(もちろんそれだけではないが)のでそこまで複雑な構造にはなっていないがそれが彼らの目指すところの室内楽的グルーヴを生み出しているのか、整然としていて見通しがいい。そして、全体的に音一つ一つが可愛いかったり、ファミコンぽかったり、フレーズが演奏を引っ張るのでドラムが変に自己主張しないところがあったり、とにかく計算されて組み立てられた音なのに複雑さを感じさせない工夫がされていて実に小気味よい。最近はプログレ要素を取り入れて、とか、プログレを通過した、とかいうバンドが多い気がするのだが、変則的なリズムに対して変則的であることが目的化してしまっているのかどのバンドも力技というかスマートに消化できているものが少ないように思う。別にそれがダメ、ということではなくて、むしろPARAはそこをスマートに消化、というかもともと其処に重点を置いていないからかリスナーを掠めとるような音にならない、フレーズの組み合わせによって発生するグルーヴという形態の先の変則ということだからか。そこが先にも述べたような小気味よさに繋がっていくのではないかとも思う。その辺りに室内楽的グルーヴという言葉の鍵が隠されているような気がする。室内楽というと弦楽四重奏とか木管五重奏とかいうような柔らかい音を想像する。同じような音を出す楽器ばかり数本、旋律だけで1曲を作り上げる、そこには明確なリズム担当の楽器がないのでわかりにくいかもしれないがちゃんとリズムも存在するしグルーヴも発生している。室内楽的グルーヴがそういった曲作りから生まれるグルーヴのことを指している(あくまでグルーヴ発生についてのみの話)とすれば納得がいく。そして、それだけを追求して終わるのではなくそういった固さに存在する一瞬の隙、例えば「うっかり」とか「魔が差す」とか「口が滑る」とかそういった人間の不完全な部分から生じるズレを次の展開に利用する、そのユニゾンをハーモニーにしていく方法の発想は今までにない、本当に面白いものだと思う。人力にはそういう未知の可能性があり、不完全さを逆手にとるような自由さも不完全な人間だからこそ、ということを最大限活用している。それだからこそ間違いがわかりやすいように皆が同じフレーズを弾いたりしているのだろうか。その間違いや失敗がよりナチュラルになるように常に演奏する時は完全なものを目指す、という、そのスタンスも実に愉快だ。PARAの東京デビューライヴを見にいったが、完全に構えている観客達に山本精一が言い放った言葉、それは「そんなにかたくならないで、こっちはかたくやるけど」というようなもの、一見別に大した言葉じゃないんだけれど、PARAというバンドの方法論などを考えると客のとるべき姿勢を教唆したような、別に変なものとか難解なものとか、そんなもんを聴かせるつもりはないよ、やるのは難しいんだけどね、という意味合いを感じさせる、そんなカチっとしているけど自由度の高いPARAの本質を非常によく表した言葉だなぁと思った。

7. 石橋英子 / Works for Everything(4月)

Works for Everything

Works for Everything

 石橋英子PANIC SMILEでドラムを叩き、歌い、MONG HANGではキーボード、フルート、パーカッション、ヴィブラフォンなどを操るマルチプレイヤーであり、町田康バンドではキーボードを弾いているらしい(未見)。また今年活動休止したNATSUMENの結成メンバーであり、これまた今年解散したon button downのサポートメンバーであり、吉田達也とデュオをやったりもしている八面六臂お姉さんだ。吉田石橋デュオ以外は全て何らかの形でAxSxEが絡んでいる。吉田達也NATSUMENとの対バン経験があるからまったく関係ないというわけでもないだろう。ということはつまりその辺を聴いている人にはとても馴染みの深い人物なのである。逆にいえばその辺を聴いたことがない人にとっては誰やねん!ということになるかもしれない。そんな知名度が高いのか低いのか、多分高くはないのだろうが、そんな石橋さんが今年ついにソロデビュー、というわけではない。もちろん密やかにだが、石橋さんのソロライブというのは何度か行われていた。そして、『モロヘイヤWAR』という果たして見た人が何人いるのかというような映画(僕も見てません)の音楽を担当したりもしている。そのサントラのCD-Rを一枚、そして『Ask My Dad』というソロのCD-R作品を一枚ライブ会場限定で販売していた模様。残念ながら僕はどちらも入手できなかったのだけれど、その石橋さん名義の2作品を混ぜて一枚にしたのがこのアルバムである。プレスCDで全国流通なのでそういう意味でデビュー盤とするならば差し支えないだろう。石橋さんのどの仕事を見ても全て魅力的で、どの楽器を演奏していても石橋英子空間というのができあがる気がするほどで楽器の種類は全然違うのにスタイルが一貫しているというか。現実と夢の間を行ったり来たりするような、真剣と適当の間を行ったり来たりするような、捉えどころのない音作り。求められているものに完璧に応えるというよりは彼女の音を求めて引く手数多というタイプの、ミュージシャンズミュージシャンならぬミュージシャンズプレイヤーとでも言おうか、つまるところ彼女はプレイヤーというよりはミュージシャンなのであって、恐らく色々なバンドで演奏していても自分の出す音に関しては一つの方向をしっかり見据えている、しっかりではないかもしれないけれど余所見したりはしない。だから、石橋さんのソロと聞いたとき、ああ恐らくこういう雰囲気のものができるのだろう、ということがすぐ頭に浮かんだ。一方で未知の部分、というのは、石橋さんは恐らくグイグイ引っ張るタイプの人ではないからなのか、それまではそういう活動がなかったからなのか、どうも実像が見えてこない靄の向こうの人という印象もあって、その見えにくい部分を垣間見られるのではないかという期待も同時にあった。そして畢竟石橋さんの作品はこちらの求めているそのものだったのである。予定調和はおもしろくないが石橋さんに対する予定がそもそも未知の部分も含んでいるのでそこは問題ない。とにかく石橋さんのそういう控えめなのに我が強いというよくわからん不思議な魅力が詰まったアルバムとでも言おうか。ちなみにここでもAxSxE前面協力、こういうのを盟友というのだろう。で、このアルバムにはどういう音楽が収められているのか、簡単にいうと変な音楽だ。例えばリズムパターンやメロディの展開は本当に変だ。というのはとても人懐っこく聴きやすくて優しいけれど一方で凄く冷淡で人見知りな、というまたここでも行ったり来たりという、まさに石橋さんの印象そのものの音。アヴァンギャルとポップの狭間を往来する音。AVANT POPという言葉があるようだがその言葉はまさに石橋さんのために用意された言葉といって過言でない。今年のもう一本のBEST10で取り上げたAZITAなんかが持つ雰囲気は割と近いような気もしないでもない。石橋さんの各仕事での音を断片とするのならばそれを全て繋ぎ合わせて、新たにこんなのもあるんです、と更に色々取り出してみたという感じ。それが見られるということでいえば彼女の未知の部分を知れるということと思うかもしれないが実は未知だった部分は結局未知のままなのだ。いくら彼女の音楽のヴァリエーションがどんどん明らかにされようと靄の向こうの実像は見えて来ない、もしかしたら靄を纏った姿それこそが実像なのか、そこに手を伸ばし続けることが彼女の音楽を聴くという行為なのかもしれない。

8. BlackBlack / BlackBlack(8月)

ブラックブラック

ブラックブラック


 偶然の出会い、これを大切にしたい。ディスク・ガイドや信頼している雑誌、ブログ、人脈全て総動員してもたどり着けない場所に実は自分の心を鷲掴みにするものが存在するということを胸に刻んでおく必要がある。つまり、部屋から外に出なければ見ることのできない世界が確かに存在するのだ。何を当然のことを、と思うかも知れないが、このBlackBlackというバンドは自分にとって確かにそういうことをわざわざ思ってしかも近所に触れ回りたくなるような音楽であったのだ。まぁ仮に彼女らの周辺から逆行して彼女らに辿り着くような自分の音楽の趣味との接点を探すとこうなる、僕の好きなバンド、Mercury Revのベーシストであり同時に好きなプロデューサーでもあるDave FridmannがプロデュースしたPhantom PlanetというバンドのメンバーがこのBlackBlackで名前を変えてギターを弾いている。こうしてみると意外と辿り着けそうだが、Daveがプロデュースしているバンド全部聴いているわけではないし、もし全部聴いてPhantom Planetに行き着いたとしてもそれを好きになるとは限らないし、なったとしても変名でやってるサイドワークまで辿り着くのにどれくらいかかる?これは僕が学校帰りか直接かわからないが新宿のタワーレコードのよく行く試聴コーナー(USインディーを主に置いている)でたまたまその可愛いジャケットが目に留まってたまたま聴いてみたということなんだから。USインディーのジャケットにはカワイイものが多いし、ホントたまたま。という割とどうでもいい出会いの話が長くなったが、とにかくギャルバンとローファイが好きって人は必聴だ。それ以外の人も気になったら聴いてほしい。例えるなら演奏のちゃんとできてしかもルックスも良くなったThe Shaggs、女子高生によるPAVEMENTのカヴァーバンド。僕の大好きな日本の女の子二人組ストロオズにも近い空気を持っている。十代という刹那的永遠をイヤというほど感じさせるしまったく感じさせない。というのもストロオズは終わってしまったしBlackBlackは今のところ現役だから。刹那的永遠はその中にいればそれと気づかないものなのだから。ストロオズは人知れず解散してしまったがこのバンドは姉妹バンドだから解散とかいうよりもただ単に「やめる」という感じで終わるんだろうか。超かわいいけど上手いとはいえない(下手ではないが)お姉ちゃん(19歳、ギリギリティーン)の歌とこれまたかわいいけど上手いとは言えない妹ちゃん(15歳、ティーンど真ん中)のドラムに時にメタリックで時にサイケなお姉ちゃんの彼氏という設定の覆面男(オレの二個上、若者)のギター、実に味わい深く切なく浮遊感があって心地よい。ここにはただ十代の女の子が特にどこかを目指すでもなく教室から窓の外を見ながらの妄想を音にした、それを彼女の家のガレージで妹と彼氏で演奏している、ただその妄想に同調するか、ふりをして決して交わることのなかった青春を思い出して嘆息するかそれだけである。カタルシスは存在しない。あるとすれば一曲だけエモーショナルな曲があるが、如何せん2曲目なのだ。ちなみにBAUHAUSのドラマーの娘とかリアルセレブとかいう情報は完全に蛇足だと思う。

9. JOANNA NEWSOM / Ys(11月)

Ys

Ys

 ハープ弾き語り女子Joanna Newsomの2ndアルバム。前作のMilk-eyed Menderでその特異なスタイルと独自の音楽性を確立させてしまっていただけに次でどのようなことをしてくるのか、リリース前から非常に興味をそそられていた。更にVan Dyke Parksとの共同プロデュース、ミックスにJim O’Rourke、録音にSteve Albiniを迎えたとあっては期待しないわけにはいかないだろう。ミックスや録音というのはよくわからないが、やはりディスカヴァー・アメリVan Dyke Parksのプロデュースということは間違いなくあの不思議なストリングスを絡めてくるんだろう。そんなわけで満を持してリリースされたのであるが、正直そこまでの新しさというものは見当たらなかった。というのはVan Dyke Parksの装飾がJoannaの音にマッチしすぎているのだ。それこそ1stアルバムでもその装飾音があったのではないかと思わせるくらいのお誂え。これはもう共演すべくしてしたという他ない、そういう意味で期待をまったく裏切ることなく予想通りの音が展開されていただけに少しだけ物足りなさを覚えてしまうという贅沢さよ。Joannaの音がそもそもディスカヴァーな要素を携えていて、それに引き寄せられるようにパークスじいさんが塗り絵を塗るように音を重ねていくといった感じで、確かにカラフルにはなっている。たった5曲の収録曲、つまり長尺の曲ばかりなのだがそれはじっくりと絨毯を織っていくようで、できあがった絨毯には様々な神話、寓話が描かれているという感じなので塗り絵というよりは織物なのかもしれない。実にドラマチックである。Joannaが縦糸でVan Dyke Parksが横糸で・・・といった具合に音楽性のズレから生まれる奇跡は全く起きていない。二人で織り上げた作品、それがとても魅力的であると同時に物足りなさというよりは収まりの良さを感じさせているのかもしれない。ここでふと思うのはJoannaがこの次はどうするのか、ということだ。まさかこれからずっとVan Dyke Parksと一緒にやるわけでもあるまい。かといってまた元のスタイルに戻ったらば、それはそれでいいかもしれないが、僕としては初めて彼女の歌声を聴いた時のようにもっと驚かせて欲しいのだ。予想できるところだとSmogとの連名アルバムなんかは今作でも見せたデュエットがとても素敵だったのでいいかもしれない。あるいはハープを弾かない作品とか歌を歌わない作品とかそういった色々なことをして新たな一面を見せてほしい。だからHELLAのZach Hill、DEERHOOFのGreg SaunierのNervous CopというバンドにJoannaも参加しているということを知ってワクワクしているこの頃。今作では良くも悪くも1stでの表現が壮大になったということに留まっている気もするから、まだ僕が見ているのはJoannaの一側面に過ぎないのだろう、ということを知らしめて欲しい。ただし、この作品でJoannaの歌声を初めて聴く人には恐らくとてもAmazingな内容だと思うし、僕のこの文章はあまり意味をなさないかもしれない、それだけ素晴らしい作品であるということは間違いない。とにかく僕は彼女のことをもっと知りたい、彼女に夢中なんだ、ということ。

10. ブラジル / コーヒー(7月)

COFFEE

COFFEE

 へろへろした音楽、音もへろへろで聴いていて心も体もへろへろになってしまう音楽が大好きで、今年一番ヒットのへろへろはこれ。Suspiriaの稲田誠、その奥さんの西崎美津子、ウリチパン郡のYtamoとホアン海というユニットを組んでいる西川文章などによるグループ。ブラジルといえばボサノヴァという非常に短絡的思考を持っているかわいそうな俺は、ボサノヴァっぽい感じもしなくもないとか思ってしまう。というかボサノヴァっぽいところがあるというだけでブラジルにしたんじゃないか?というくらい摑み所の無い音だから、多分ボッサ好きに聞かせても何人の人が気に入ってくれるかどうか、まったくのたくたくの未知数である。ではほんの極僅かなボッサっぽい要素以外を一体どう形容すればいいのか。彼らの前にジャンルは無力だ。グループ名がブラジルならタイトルはコーヒーかなぁ、という会話が団地の一室で駆け回る子供を注意しながらされている光景を思い浮かべるととても幸せな気分になるような、そんな感じ。公園で蟻の行列を観察する子供の親というか、とにかく幼稚園児の子供を持ったらこんな感覚生まれるのかなぁと想像すると楽しい。何しろ音数が少ないので隙間に色々なものを見てしまうのだ。かと思えば子供の癇癪のようにサックスが狂ったように唸りだしたと思えばいつのまにか治まっていたりする。こういった音にも現れているが日常の感覚が湧き出たままそれを整理せずに言葉に出してみたような歌詞、この辺は例えば同じくへろへろ音楽の巨匠JON(犬)やNipletsのヒロシNarに通じるところがある。こういうやり方ならばいくらでも新しい音楽が出てきそうな程、日常の断片と言うのは様々で摑み所がない。人生というドラマ全体からは日常の断片を抜き出せるが、断片から全体を映し出すのは不可能に近い。彼らの音がまったくドラマチックでなくメロディがいいというわけでもリズムが面白いというわけでもないのに、何故かとても人懐っこい印象を抱かせるのはそういうわけなのだろう。だって気付いたら口ずさんでいるし。人生より日常なのだ。ところで、驚きなのはこれが2ndアルバムだということ、こんな音楽を一体何年やっているのか。このアルバムはHEADZ内Weatherからのリリースだが佐々木敦もとんでもないもんに目をつけたもんだ。

2007.12.6UP

開かれた日常」より。この年は2006年リリースのもののベスト10とオリジナルが〜2005年リリースのもののベスト10を作りました。〜2005は「開かれた日常」で読んでみてください